
現在大河ドラマ「巧名が辻」で有名な山内一豊ぬれせんべい 一豊くん 20個入り
尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)にある山内家の居城であった黒田城に生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、のち信賢)の配下であり、父盛豊は家老として仕えていた。ところが岩倉織田氏は同族の有力者・織田信長と対立し、家老である山内家もこれに巻き込まれる。まず弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に主家の居城・岩倉城が落城、この際に父盛豊が討死ないし自刃した可能性が高い。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し流浪することとなった。
一豊自身は当初は苅安賀城主(一宮市)浅井新八郎、松倉城(岐阜県各務原市)主前野長康、その後尾張を出て美濃国牧村城(岐阜県安八町)主牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主の山岡景隆に仕えるなどした。しかし永禄11年(1568年)頃には織田信長に仕え、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の与力となったと考えられる(註1)。その後元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し(註2)、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いにも参加し顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った(註3)。このとき一豊の頬に刺さったと伝えられる矢は、このとき矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の虎姫町域)で400石を与えられた。この際に秀吉自身が自身の郎党をほとんど持たないことから彼の直臣に立場を変えたと考えられる。なお、400石という禄は同僚であった浅野長政・堀尾吉晴・中村一氏らが同じ時期に100石台であったことから、彼らより一歩先に出るものであった。この後天正5年(1577年)には播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2千石を領している。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦いや、因幡の鳥取城包囲などに参加している。
註1:この時期の一豊に関する史料がなく、仕官時期の確定は難しい。
註2:初陣については諸説がある。
註3:『一豊公御武功附御伝記』による。『信長公記』にはこのとき取った将校の首の一つとして三段崎六郎の名があり、当該人物か。


